最終更新日 2025年4月15日
一週間が過ぎ去ろうとする華金の夜、次の日も休みで浮かれた気分の人がにぎわう土曜の夜の街の高揚感が昔から好きだ。
足早に過ぎ去る人々、待ち合わせ場所へと向かう浮かれた足取り、抑えきれないワクワクした表情と、疲労を忘れたようなハイになった心身から感じられる全能感。
一週間という時間のしがらみを超え、一時の自由を手にした人々の幸せそうな笑顔。
そうした些細な幸せをどれだけ実感できるかが、楽しく人生を生きるコツである。
幸せは掴むものでも手にするものでも、なるものでもなく、ただ気づくものなのだ。
何気ない日常生活の中に潜む、誰もが見逃しがちな些細な幸せ、自分の以外の誰も気づかなそうな小さな幸せをいかに見つけることができるか。
それが人生という長いマラソンを走るためには必要である。
視線は右から左へと即座に切り替わっていくが、自分にとっての些細な幸せ、小さな幸せはどこにも行かずにそこにある。
幸せを感じられないのだとすれば、それは自分の感性が幸せの形を認識できていないからだ。
日常の中に潜む些細な幸せ
いつも通りの通勤ルートの中にも、よく目を凝らせば些細な幸せが落ちていることに気づくだろう。
太陽が照らす草々から感じる人間とは異なる生命力。
頭の上から聞こえる小鳥のさえずりやカラスの鳴き声。
道端に咲くたんぽぽや華々しく散っていく花びらたち。
小川の流れる音と、どこまでも広がる青空。
なんでもないようなことでも感性を武器にアーティスティックに捉えることで、平凡が幸せに、無駄が充実へと変わっていく。
まさに、「何でもないようなことが幸せだったと思う」という歌詞のとおりである。
日常の中に潜むどうでもいい景色、気分を少しだけ良くしてくれるような些細な幸せ、そうしたものをたくさん持っている人ほど心は豊かになる。
だが、人は目には見えない抽象的なものを具体的に捉えることが苦手だ。
具体的なものを抽象的に変換することは得意でも、はじめから目に見えていないものについて考えを巡らすのが苦手な生き物なのである。
だからこそ、多くの人は日常の中に潜む些細な幸せになかなか気づくことができない。
ニーチェは芸術的なおこないに没頭することこそ、不合理と矛盾に溢れる世の中で強く生きていく術だと述べた。
詩を書くこと、写真を撮ること、絵を描くこと、モノづくりをすることなど、自分にとっての芸術、言い換えれば些細な幸せに没頭することで、不条理な世の中でも強く生きていくことができる。
自分なりの些細な幸せを発見し、砂上の楼閣のようなすぐ消えてしまう小さな幸せを積み上げていき、思い通りにいかない人生の中でも日々自分の幸せを実感していく。
それがきっと、”生きる”ということなのだ。
セロトニンを増やす行動が「些細な幸せ」になる理由
実際、人は些細な幸せがあるからこそ、毎日を一生懸命に生きようと頑張れる。
何も楽しみがない状態、嫌なことばかりで埋め尽くされていれば、どんな人でもメンタルが病み、生きていくのがつらくなってしまうだろう。
だから、コンビニでスイーツを買ったり、週末に夜更かししてゲームをしたり、ぶらぶらと散歩をしてみたり、スタバのコーヒーを飲んでみたりなど、自分にとっての些細な幸せを作ることで、うまくストレスを発散しながら生きていけるのだ。
幸せは1つの大きなものではなく、小さなものをさまざまなところに分散させるほうが、幸せを感じる瞬間が多いので、結果的により多く幸せになれる。
では、些細な幸せを見つけるときに大事なのは何なのか。
専門的な言い方になってしまうが、それはセロトニンを増やす行為である。
セロトニンは脳内の幸福ホルモンとも言われるもので、セロトニンが多く分泌されればされるほど、人は幸せや喜びを実感できる。
セロトニンを増やすには散歩や瞑想、お風呂やたくさんの睡眠などが効果的と言われているが、「自分にとって心地よい時間を過ごすこと」がセロトニンを増やすためにもっとも大事なことだ。
つまり、「些細な幸せ=セロトニンを増やす行為=自分にとって心地よい時間を過ごす」ということ。
セロトニンがすべての幸せの土台となるものなのだ。
達成感とリラックスで「自分だけの幸せ時間」をつくる
言うまでもなく、何が自分にとって心地よい時間になるのかは人によって違うだろう。
他人の幸せが自分の幸せではないように、自分にとっての些細な幸せも人の数だけあるものだ。
たとえば、私の些細な幸せは、朝に筋トレとランニングをすること、本を読むこと、週末のご褒美にアイスを食べること、毎日寝る前に映画やドラマ、アニメを見ることである。
とても平凡で特別ことではないが、自分にとって心地よい時間、ワクワクしたり嬉しい気持ちになる瞬間を意図的に作っている。
ポイントは特定の曜日や毎日の中に些細な幸せを作ることと、些細な幸せの中身をリラックスと達成感のどちらかを得られるようにすることだ。
たとえば、筋トレやランニングは達成感が得られる些細な幸せで、本を読んだりアイスを食べたり、映画やドラマを見ることはリラックスが得られる些細な幸せである。
些細な幸せは達成感かリラックスのどちらかを得られるものでなければ、セロトニンが分泌されないので幸せを実感しづらい。
自分にとっての些細な幸せを考えるときは、何が自分に達成感を与えてくれるのか、何をすることでリラックスを感じられるのかを考えてみる。
そして、実際にやっていて心地よいと感じるものを選び、毎日の習慣として取り入れる。
些細な幸せを感じる鍵は、自分の感性を理解することにあるのだ。
お金に頼らない幸せの見つけ方
自分の些細な幸せを感じ取るセンサーを無駄にしちゃいけない。
日常の中で些細な幸せを見つけることができる感性が、人生を生きるに値するものに変えてくれる。
幸せを感じるために、お金に頼らないこと。
お金は決して悪いものではないが、お金で買える幸せには限界があると同時に、お金がなければ幸せになれないと勘違いしてしまう。
本当の幸せとは自分の感性で気づくものであり、その本質は自分の生活の身近に潜む些細な幸せだ。
いつも機嫌よく幸せを感じながら生きたいのであれば、大人になって失ってしまった感性を取り戻さなくちゃならない。
幸せはいつだって自分の内側から生まれるもので、環境と感性が共鳴することで輝きを放つものである。
些細な幸せを感じるためにお金はそこまで必要なく、小さな幸せを積み上げるのにもお金は必要ない。
幸せを他人と比べるのは不幸のはじまりである。
幸せなんてものは自己満足なので、幸せの背比べなんてしなくていいのだ。
犬を散歩させること、朝にコーヒーを飲むこと、読書をすること、写真を撮ること、絵を描くこと、二度寝をすること、スイーツを片手に映画やアニメを見ること。
自分なりの心地よい時間、些細な幸せを大事にし、毎日小さな幸せを積み上げていこう。
チリも積もれば山となるように、幸せも複利的に積み上がっていき、自分の人生を豊かにしてくれるだろう。
幸せを感じる感性を取り戻すこと、セロトニンで頭の中を満たすことが、幸せになりたい大人がやるべき最初の課題である。
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