最終更新日 2025年3月17日
人は何かに期待してしまうと、それが叶わなかったときに物凄いストレスを感じてしまいます。
日々の生活の中で「こうなるだろう」と期待して行動した結果、思い通りにいかなかったときに嫌な気分になったことがある人も多いはずです。
人間関係においても同じで、他人に対して「こうしてくれたらなぁ」、あるいは「こうしてくれるはず」と期待することで、それが叶わなかったときに相手に対して不信感や憤りを感じてしまう。

ですが、後にそれは大きな間違いだと気づきました。
なぜなら、人生は自分や他人に期待するほどつらくものだからです。
目次
期待しない生き方
「期待しない生き方」と聞くとなんだかネガティブに聞こえるかもしれませんが、期待しない生き方というのは決してネガティブで後ろ向きなものではありません。
ネガティブに生きるのと、期待しないで生きるのは似て非なるもので、前者は悲観的な思考ですが、後者は楽観的な思考に基づいています。
人生には他人に迷惑をかけず、かつストレスフリーで生きられる方法がある。
それが、何事にも期待しない生き方である。
期待があるから裏切りが生まれる
多くの人たちは、自分でも無意識のうちに色々なものに期待しながら生きています。
とくに人間関係、その中でも恋愛ではほとんどの人たちが異性に期待しながら関係を築いているはずです。
恋愛では相手に対して「好き」という感情を抱くと、自然とそこには相手に対しての「期待」が生まれる。
「自分の気持ちに応えてくれるだろう」
「自分はこうしたのだから、相手もこうしてくれるだろう」
愛情にははじめから期待が込められていて、期待が満たされなかったときに人は異性から「裏切られた」と感じます。
浮気にも同じことが言え、「付き合っているのだからほかの異性と遊んだりしない」という期待があるからこそ、コソコソ遊んだりされたときに裏切られたと感じる。
つまり、「期待」は「裏切り」という感情を生み出すものなのです。
「期待しない」は「信用しない」ではない
勘違いしちゃいけないのは、「期待しない」ことは「信用しない」ことではありません。
期待しないというのはあくまでも「自分勝手に相手に求めすぎない」ということで、他人を自分のおもちゃのように扱わないという意味です。
人は何かに期待している以上、そこには必ず「叶ってほしい」という欲求が存在しています。
他人に期待している状態とは、言わば「他人は自分の思い通りに行動してくれるだろう」と自分勝手に他人を解釈している状態。
つまり、他人に期待している人は、他人を自分の思い通りに行動するおもちゃのように扱っているということ。

人生での楽しいことやうれしいこと、幸せを感じることや喜びを感じることを1人で感じられるのは心が安らぎます。
最近は若い人を中心にあえて1人になる「孤独な生き方」を選ぶ人が増えていますが、その生き方を選んだ根底には、他人や自分の人生に期待することによる疲弊やストレスが関連しているのかもしれません。
少なくとも、私はそんな1人です。
期待ではなく無償の愛を持つ
さきほども述べたように、「期待しないこと」と「信用しないこと」は違います。
期待しないというのは依存しないという意味でもあり、信用に依存は関係ありません。
依存しなくても人を信用することはできます。ある意味「無償の愛」こそ信用の本当の正体です。

こうした愛情は見せかけの愛情であり、少しでも自分の思い通りにいかなければ「裏切られた」と叫び、すぐ自分を被害者として扱います。勝手に期待しているのにも関わらず。
それに対し、「無償の愛」というのは期待や依存、執着や見返りといったものは存在せず、ただ相手の人間性を信じている状態です。
「こうしてくれるだろう」というのは期待ですが、無条件の信用には「裏切り行為」そのものが存在しないため期待も存在しません。
裏切られたと感じるのは、裏切られたと思ったときだけです。
そして、相手の行為が裏切りになるかどうかは他人に対する感情で変わります。
言い換えれば、他人に期待しているかどうかで決まるということ。
期待と裏切りはコインの表と裏のように決して切り離せないものなのです。
期待しない生き方は人生を受け入れるということ
私は、自分にも他人にも人生にも期待していません。
でも、それは人生そのものに「いいことがある」と思っていないだけであって、人生に絶望しているわけではありません。
自分の人生に対する見方、感覚のデフォルトの状態が「人生は苦しいのが当たり前」に設定されているのです。

別の言い方をすれば、「つらいのがあたり前」というスタンスで人生と向き合っています。
私の「期待しない生き方」の根幹には、人生は苦しいものという信念が存在しているのです。
期待しない生き方になった理由
「人生は苦しいのが当たり前」というスタンスで生きていると、毎日楽しいことが起こるとも思っていないので、繰り返す毎日に嫌気が差すこともありません。
感情的にも刺激を求めて右往左往するのではなく、常にフラットな精神状態で毎日生きられます。

仏教には「四苦」という言葉があり、これは人生に存在する4つの苦しみである「生老病死」のことを表しています。
- 「生」は生きることについての苦しみ
- 「老」は老いることについての苦しみ
- 「病」は病気についての苦しみ
- 「死」は死の不安などについての苦しみ
仏教は生きること、人生そのものを苦しみの一つとして数えています。
私の考えもこの仏教思想にかなり近く、生きること自体は苦しみの連続であり、苦しいのが人生だと受け入れている。
それが私を期待しない生き方へと導きました。
期待しない生き方は心が強くなる
私は別に仏教徒でもなければ修行層でもありません。
苦しみを楽しむようなM気質なわけでもないし、つらいことを好んで選び取るようなタイプでもありません。
でも、子どもの頃から生きることについて悩んでいた自分が大人になった今、苦しみを当たり前のものとして受け入れている自分がいるのも事実。
自分にも他人にも人生にも期待しないというのは、「苦しみがあるのが当たり前」「うまくいかないのが当たり前」だと受け入れているからこそできることです。
人類はこれまで、過酷な環境に幾度となく適当してきました。
適応できなかった人種は遺伝子のプールからはじき出され、運良く適応できた人種が子孫を繁栄させ、人類を現代までつないできたのです。
こうした人間の適応能力は、なにも進化や生存に関してだけに言えるわけではありません。

たとえば、失恋したときの痛みは相当なものですが、時間が経つにつれて痛みは和らいでいく。
これは時間が失恋を解決しているのではなく、自分の中の適応能力が痛みに順応した結果です。
人生においても同じで、人生を苦しいものとして受け入れるのは難しいですが、苦しい出来事を多く経験すればするほど、人生は苦であるという考え方を受け入れやすくなります。
つまり、期待しない生き方をすることで心が強くなるのです。
期待しないのは自分を守るため
はじめにも言ったように、私は昔いつも何かに期待しながら生きていました。
でも、いつの間にか期待しない生き方が自分の人生のモットーになっていました。
人に裏切られたからなのか、何か嫌なことがあったからなのか、努力が報われず挫折することに嫌気が差したのか、何がきっかけになったかは自分でもよくわかりません。

こうなりたいと自分に期待し、こうしてほしいと他人に期待し、こういうことが起こってほしいと人生に期待するのが私には苦しかった。
「人生は思い通りにいかない」のは頭では理解していても、現実で何度も突き付けられるとさすがに心が持ちません。
勝手に期待して勝手に裏切られたと感じ、勝手に絶望して勝手に生きることに疲れる。
そのストレスに耐えきれず、何事にも期待しないで生きるようになったのだと思います。
そんな自分を否定するつもりはありませんし、期待しない生き方をしている今の自分が不幸だとも思っていません。
逆に、期待しなくなったおかげで些細なことに喜びや楽しみを感じられるようになり、人生の幸福度が増したとさえ感じています。

期待していないと言いつつも、実は「こうなったらいいなぁ」と人生や他人に期待しているのかもしれない。
それでも、今の私にとって期待しない生き方とは、これ以上ないぐらい前向きでポジティブなもので、精神的にもストレスがない安らぐ生き方です。